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沿革

原始・古代

御代田町に最初に人が住み始めたのは、浅間山の大噴火が静まった今からおよそ1万2千年前ごろのことで、縄文時代の初めにあたります。
縄文時代の1万年間は、浅間が穏やかな時期だったようで、人々は山麓の豊かな自然を享受し、たくさんのムラがつくられました。

およそ5000年前の縄文時代の中ごろ、人々は塩野の川原田遺跡や豊昇の宮平遺跡に大きなムラを構えました。川原田遺跡からは、国重要文化財となった「焼町(やけまち)土器」が発見され、御代田に住んだ先人の創造性の高さを物語っています。

縄文時代につづき、弥生時代、古墳時代にも人々はこの地に住みました。つづく奈良時代・平安時代には、この地に朝廷直営の牧場である御牧「塩野牧」が置かれ、官道「東山道」が通るなど佐久地方の中枢部として賑わいました。しかし、天仁元年(1108)の浅間山の大噴火によって人々の暮らしは一時的に大打撃を受けたものとみられます。

中世

室町時代には佐久平に拠点をおいた大井氏が全盛を迎え、この地域も大井氏の傘下にあったと考えられます。応仁の乱(1467~1477)以降は、御代田をはじめとする佐久地方には多くの小領主が割拠しました。小田井城にいた小田井又六郎もその一人でしたが、武田信玄により滅ぼされました。

近世

御代田町域は、江戸時代当初は小諸藩領でした。天和2年(1682)小田井が幕府領になり、元禄16年(1703)には岩村田藩領に、伍賀は元禄14年(1701)に幕府領へと変わりました。

五街道が整備されると、御代田町には中山道の小田井宿が置かれ、本陣・脇本陣・問屋などが設けられました。小田井宿は、女性がよく利用したことから「姫の宿」と愛称されました。いっぽう北国街道では、追分と小諸宿の間が距離がありすぎて、通行に支障をきたすことから、元和6年(1620)に馬瀬口村が開かれたといわれます。天明3年(1783)、想像を絶する浅間山の大噴火がありましたが、人々は屈することなくたくましく行き抜いたことが古文書に記されています。

近・現代

天保時代、御代田町域には十数村がありました。明治8年(1875)の合併により、御代田村・豊昇村・新治村(その後分村)が発足し7村となりました。

明治22年(1889)の町村制施行では、馬瀬口・塩野が合併した「小沼村」、草越・茂沢・豊昇・広戸・面替が合併した「伍賀村」、「御代田村」の3村となりました。

昭和31年に、小沼・伍賀・御代田村が合併し、新生御代田町が発足しました。
昭和30年代からは別荘地開発が進み、工場誘致も進められました。御代田町の産業は、高原野菜生産を中心とした農業をはじめ精密工業などバランスがとれ、また居住地としても最適なことから、年々人口も増加し、今日の御代田町の発展へとつながっています。